さらばわたしの牛プールなんて久しぶりだった。 「流れすぎるプール」というのがあって、幼い頃の記憶を喚起されたわたしは、喜び勇んで飛び込んだ。 それはそれは流れた。 素麺は絶え間なく流れていたし、彼との約束も子どもの遠足もその子どもの弟かもしくは妹になるはずだった生命も流れた。 泣きじゃくって流れるわたしを引き上げてくれたのは大きな牛で、「ちょうど今朝ビザがおりた」のだと説明してくれた。 「やっとですよ」 「ビザが?」 「ええ。長い間待ちましたよ」 「日本が好きなの?」 「いいえ」そう言って牛は、足元の人工芝を食むのです。 牛の相手なんて退屈だったのもあるが、「波の出すぎるプール」へ移動するにはさして時間がかからなかった。 パラソルやチェアも飲み込む波は、どこか潔い気もした。 わたしは何度も巨大な波に飲まれながら、一度胸をプールの底にしこたまこすりつけてしまった。 「赤くなっていますよ」 「でしょう。痛かった」 「物理的な痛みなんてすぐに忘れますよ」 「そうね」生意気な牛だと思った。「こんな傷はすぐに癒えるもんね」 「ですです。本当に苦しい物事は、目には見えないんですよ」 「聞いたセリフね」 「はい」 切り刻んでサーロインだけ取り除いてやったっていいんだ。牛のくせに。 牛はのんびりとした足取りで、隣のプールに向かった。 「飛び込まれプール」というものだった。 牛は小さく間延びした声で鳴いてから、ぞぶんと飛び込んだ。 口の端から水滴を垂らして、のそのそと階段を昇っていく。 「まあた飛び込むんだ」 わたしのひとり言は、牛に届くことはない。牛のくせに。そう悪態をついてみる。 水色なのは湛えられた水ではなくて、それを覆うプールの器自体の青さなのだ。 そのことに気がついたのは首だけ出して水に浸かってからだった。 上空を見上げれば、水底のような空がわざとらしく広がっていて、ああこれはもしかすると君の海なのかもしれないと考えてしまう。君って? わたしは苦笑する。君って誰だろう。天と地が逆転した場所で、わたしはよくわからなくなってくる。 愉快な気分になってさらに首をそらせば、遥か高いところにある飛び込み台から牛が首だけ出している様子が窺える。もほほほと鳴いたのだろうか。牛の首が斜めにそる。 「さあおいで」 わたしはまたひとり言を漏らす。 牛は緩慢な動作で、その巨体を重力に乗せていく。 醜いなあ。 わたしは心底呆れてしまう。両手を差し出して、もう一度空を眺める。きっとあのもっさりとした牛を抱えることはできないのだと確信する。だから腕を引っ込めて、かわりに目を見開いて笑ってみる。空はどんどん狭くなって、黒と白のブチに覆われる。もう! なんて言ったらあまりにもつまらない。ぎゅーと押しつぶされるなんてのもだめ。なんでこんなときに気のきいた言葉が出てこないんだろう。 こんなに空は美しいのに。
by Your_sea
| 2006-08-01 22:30
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