タグ:小説 ( 1 ) タグの人気記事

チグーミ



 チグーミが流行り出したのは半年前のことだ。
はじめは渋谷あたりの高校生から発信されたという噂が主だった。
しかし実際のところは、西新宿のオヤジたちが広めたという噂もある。
でどころが分からないくらいに、チグーミは急速に広まった。

 やや遅れを取ったが、僕も今日チグーミを手に入れた。
手のひらほどの大きさで、恥ずかしがりやだからすぐにポケットに逃げ込んでしまう。
きゅうきゅうと小さく鳴くところが、なんとも可愛い。
お腹がすくと小さな鼻を出してきて、ふにふにと周囲の匂いをかぐ。その仕草がまた可愛い。
それから様子をうかがいつつ、頭を出してきて、黒目がちの目で周囲を窺うのだ。
僕は人差し指だけで頭を撫でてやる。意外に弾力のある体毛が心地よい。

 チグーミが誰しものポケットに入るようになってから、ずいぶんと社会は変わったと思う。
例えば電車だ。
「ご乗車中はチグーミを離さないようお願いします。餌やりなど離す場合には、デッキでお願いします」
そんな放送があたりまえになった。
チグーミはソーセージだとかゆで卵を食べる。小さな頭を小刻みに揺らして齧りつく姿は、朝のラッシュにあっても人々を和ませる。

 彼女は僕よりもずっと前にチグーミを飼っていた。
まだ三度目だったろうか、緊張ばかりのデートのときに胸元から飛び出てきたチグーミに、僕はのけぞってしまったものだ。
「あのねあのね。名前付けちゃった」
「へえ。珍しいね」
「あのねあのね。ちび」
「へえ。そのままだ」
「うん。そのままー」
 彼女は笑って、チグーミの頬を指で撫でた。その小動物はくすぐったそうに身をよじって、その仕草があまりにも可愛かったので、僕も買ったのだ。

 僕はチグーミに「バロン」と名付けた。
ちょっとお堅いかなって思った。まあしかし、上司は「エニグマ」とか付けているし、要はなんでもありなのかなって思ったのだ。
ミニペットというのが売りだったチグーミだったが、どうやら我々は予想以上に依存してしまったようだ。
どこにいくにもチグーミがいなければ不安になってしまう。
常に時間を気にして、何度も何度もチグーミの様子を窺ってしまう。彼らの寿命は二年程度で、死を迎える前にチグーミ変更をするのが主流だ。
残酷と思うかもしれないが、誰だって毎日一緒に行動を共にするチグーミの死を見たくはない。
だから寿命が切れる前に新しいチグーミと交換するのだ。

 僕のチグーミと彼女のチグーミは、とても仲が良かった。
あれは横浜の山下公園だったろうか。真っ黒な海が眼前に広がっていて、僕らはベンチに腰掛けていた。
僕の胸ポケットからチグーミが頭を出して(こいつは僕の胸ポケットが好きで、おかげで煙草を辞められた)、呼応するかのように彼女のチグーミがハンドバッグからひょっこりでてきた。
まるで出会った頃の僕らのように、ゆっくりと、もどかしく二匹のチグーミは近づいていった。
僕の腕をゆっくりと伝っていバロンと、彼女の首周りを一周してから照れくさそうに腕を伝っていく「ちび」。
僕らはくすくす笑いながら見守った。
どこかにある船が汽笛を鳴らして、ちょうど雲間から月が見えた。大きな月だった。
それからのことは、早回しのようであまり記憶にない。
僕のチグーミが危うげなバランスのままちびに近寄って、我々の顔に花のような笑みが咲いたと同時に、ひと噛みでちびの首が失われた。

 彼女の指先から手首にかけて一筋の血が流れて、それはまるで彼女自身から流れる血液のようだった。
僕は衝動的にバロンを掴むと、ベンチの縁に叩きつけた。
ちびの首がぽろりとこぼれ落ちて、やはりそこにも小さな小さな血の滴が流れ落ちた。
彼女はもう何も言葉を発することもなく、ベンチを後にした。
小さな手にはちびの亡骸が握られていて、何か言葉をかけようとした僕は、再び夜空を横切る汽笛に、存在ごとかき消されてしまった。
[PR]
by Your_sea | 2006-08-07 21:46